2003年4月13日日曜日

曲技飛行競技とは何であって何でないか

曲技飛行競技とは何か。

空のフィギュアスケートとも呼ばれる曲技飛行競技は、直径1キロの空域内で連続した科目を・・・

やめておこう。ルールを解説することによって曲技競技を基礎づける試みは、他所に譲ることとする。こういった情報は比較的アクセスしやすいものであるし、私よりも圧倒的に含蓄の深い先輩方がより優れた情報を提供してくれている(例えば、http://www.aerobaticteam.jp/menu.html)。ここでは、私がこれまで競技活動に関わる過程で見つめてきた「競技飛行とは何であって、何でないか」という問いに対し、非常に主観的な視点からの考察を行うことにする。

競技とは、飛行家が総体として行う飛行技術の追求であると私は考える。もちろん競技には、いわゆる競争として勝ち負けを決めるという側面もあるし、国別の優劣をかけて戦うという側面もある。実際、そういった側面に熱意を注ぐ向きもある。しかし私にとって、順位の優劣それ自体は何ら意味を持たないし、ましてや自分の所属する集団に優劣を還元しようなどとは露程も考えたこともない。その理由は、私の競技飛行への取り組みが、端的に飛行技術の向上を目指したものであることに他ならない。

飛行技術、これほど恣意的な概念もないだろう。どのような飛行が正しく、上手いのかを決めるのは、ほかでもない我々である。飛行機の構造的制約に基づく「飛行の本来」の存在を意識する瞬間は確かにある。しかしその本来は、あくまでその飛行機が「そのような形」で目の前に与えられているからこそ存在する流動的な状況であり、ある種の恣意性の帰結として時代依存的に成立する「本質」である。

なぜループは真円でなければならないのか、なぜロールレートは一定でなければならないのか、あるいはなぜスナップロールはロールレートの顕著な増加をもってしなければそれと認められないのか。その理由は「我々が定めたから」に他ならない。基準とは、常に我々が創りだすものである。我々は、我々の創りだした基準の中で競い、優劣を決め、上位者を技術的規範とする。そして、その規範は自己に対する再考を促し、飛行技術そのものが時代を通じて流動する。技術の生成は、技術の根拠であった飛行機そのものの構造への再考をも促す。競技用の飛行機とは、飛行家によって生み出された規範によって二次的、三次的に輩出された最終産物であり、同時に未来の規範を生み出す原始でもある。我々はその流動の中に身を置き、技術の追求をもってして技術の創造をも同時に行い続ける。

規範のないところに優劣は存在しない。目の前の地平線が一回転すればループ、そのような状況にある限り、飛行技術とはその飛行家自身の社会的な立ち位置や武勇伝の自己語りをもってしてしか成立しない。我々は、社会的、対人的に成立した「技術」を軽視する。なぜならば我々は飛行家であるからにして、技術は飛行そのものをもってして語られなければならないからだ。飛行の中にこそ技術を生み出す余地が存在するのであり、それは決して偶発的な対人的階級の付随として生み出されてはならない。

マクラ氏は言う。
Competition is best aerobatic school. Most important.
競技会とは、単なる競争の場ではない。そこで教えあい、高め合う、まさに規律訓練の場としての「学校」。競技飛行の中でこそ、我々は曲技飛行技術を追求することができる。技術の追求、ただこの一点において私の志向性は、娯楽としての曲技やエアショーとは完全に相反するものであり、さらには飛行技術を自己及び集団の優劣へと帰結させる「勝負事としてのスポーツ」とも強く決別するものである。